最新更新日:
03/06/24


首里金城町巡検
首里の歴史
 15世紀初頭に尚巴志が中山の拠点を浦添城から首里城に移して以降、明治時代の廃藩置県によって琉球王国が消滅するまでの約500年間、首里は琉球王国の首都として栄えてきました。首里は城とともに発生・発達した都市で、17世紀には都の領域を定め、三つに区切ってそれぞれ「真和志の平等」、「南風の平等」、「西の平等」とされていました。廃藩置県後には各村の編入がなされ、ほぼ現在の首里の行政区分ができあがったとされます。太平洋戦争の時には、日本軍の本部が首里城の地下壕に置かれていた事から米軍の激しい攻撃を受け、首里城とともに首里の古い町並みはほとんど破壊されてしまいます。それでも金城町など一部の地域は大きな被害を受けなかったことから、今でも首里の古い町並みを見る事ができるのです。戦後市制を実施し「首里市」となりますが、1954年に那覇市と合併し「那覇市首里」として現在に到るという経緯があります。

石畳とは
 琉球国王尚真の時代(15世紀終わり頃〜16世紀)に王府によって主要道路の整備を行われます。その際に首里城〜金城町〜識名繁多川〜上間〜国場と経て、現在の真玉橋に到る道を石畳で整備し、それを「真玉道」と呼び、首里金城町の石畳はそれが現存しているものであります。また、現在金城ダムに残っているヒジガー橋とそこから下ヌ道をはさんで首里城の方へ延びている石畳の坂道(ヒジガービラと呼ばれている)は、かつて首里城から識名園に向かって整備された石畳道の名残である。

金城町の井泉(カー)
 首里城の南側は斜面となっており、そこにはたくさんの井泉(カー)がある。首里寒川町などはそこに湧き出る寒水川樋川(スンガーヒージャー)がそのまま地名の由来となった例であるという。金城町は湧水の豊富な地で、共同井泉(ムラガー)は金城樋川(カナグスクヒージャー)をはじめとして潮汲川(ウスクガー)、仲之川(ナカヌカー)など六つほどの井泉(カー)が集落の中に適当な間隔をおいて掘削されています。金城樋川は特に水量が豊富であり、琉球における製紙発祥の地として重要な史跡とされています。また、その豊富な水を利用した緑豆もやしの製造が盛んだったという伝承も残っています。現在では各井泉(カー)とも水量が減り涸れてしまったり、水があっても極わずかしかなかったりとかつての面影をうかがい知ることは難しい。

巡 検
 今回の首里巡検では首里城より南方、首里金城町の石畳周辺とヒジガービラ周辺を歩きました。民研(あるこう部も含む)としては何度も金城町の石畳は歩いているそうなのだが、今回の参加メンバーでは奇しくも初の巡検となる。巡検のルートとしては首里城近辺をぐるりと回った後に石畳に入り、そこから下ヌ道まで下っていく。下ヌ道に至ったら道なりにヒジガー橋に向かい、橋からヒジガービラを上って上ヌ道を目指すといった具合になりました。途中いくつかの御嶽や井泉などを見ながらの巡検は4時間ほどでした。
 巡検の前半は石畳の坂道を下るためかなり楽でしたが、後半になると下った分だけ上らなければならないため、後半部分は前半の倍は時間がかかり、部員もかなりお疲れの様子でした。それでも天気にも恵まれ、春のうららかな陽気の中で古都首里の雰囲気を十分に味わうことができたのではないだろうか。今回はどうしても観光色が強かった巡検でしたが、首里城北側など首里巡検補完計画(古いか?)に向けて部員の意気も高まったと言える…。



おまけ〜「の」の謎〜
 右の写真は首里名物の1つ「儀保ののーまんじゅう」の作成風景である。巡検ルートからは大分離れてしまうのだがせっかく来たのだからと帰りに寄ったところ、「の」の字を書き入れる場面を写真に収めさせていただきました。あまりの速さのため筆を振る手が写真ではぼやけてしまってます、まさに職人芸である…。数々のいわれを持つ「の」の字の由来であるが、お店の方に伺ったところ、どのようなお祝いにも対応できるように「のし」の「の」からきているとのことでした。ちなみにある部員の話によると2月14日には「の」の字がハートの形になるそうである…。ほのかな塩気のある皮にたっぷりのあんこの「のーまんじゅう」、出来立てをぜひ一度ご賞味あれ!

■巡検風景

 
■島添坂(シマシービラ)


■金城村屋


■潮汲川(ウスクガー)

■大アカギ


■ヒジガー橋
 
■御茶屋御殿の石獅子
 

■のーまんじゅう



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