はじめに
近々、琉大巡検を計画中だが、それに先立って、琉球大学千原キャンパスについて説明をしておこうと思う。
琉球大学は1979年3月に、農学部を最初に、首里キャンパスから千原キャンパスに移転した。今から26年前のことである。それまではここは一体何があったところなのか、農学部付近の幽霊目撃談が後を絶たないのはなぜ? 疑問に対する答えになっているかはかなり疑わしいが、一琉大生として、キャンパスの歴史を知っていても損はないだろうと思う。
1.杣山・茶園
現在の琉球大学千原キャンパスは、近世期の琉球王朝時代には棚原山林・棚原山地と呼ばれ、首里王府の御用木を供給する杣山であった。
また、このキャンパス内には王府直轄の茶園があり、和漢の茶葉が製造されて、国用に供されていた。茶園が開かれたのは、1733年。これを契機に、いろいろな種類の茶葉を製造するようになった。 茶園の面積は20,850余歩。茶樹と一緒に、船の帆柱用材の杉(コウヨウザン)や建築用材の樫(イヌマキ)なども植えられていた。
茶園の跡は今の体育館の辺り。そこは昔からチャーヤマ(茶山)と呼ばれていたという。また、茶園の周辺には、千原という小集落があり、この茶園を特別に管理する家もあった。
杣山は、明治30年代の土地整理と杣山処分、その後の町村制施行の過程を辿って、その多くは当時の西原村の村有林に所有名義が変わった。西原村への所有移転後も、村有林は王朝時代からのヤマバーン(山番)制度によって管理されていた。
明治30年代ごろ、泉川さんと石原さんという人が、棚原山林内のヤマバーンに指名されたという。ヤマバーンの仕事は、主に盗伐の取締りであった。とはいえ、地域住民は王朝時代からの入会林野利用の慣行で、村有林内に入りこみ、禁止木以外の枯れ木(薪用)の採集や牛馬や山羊の草刈りなどを行っていたようだ。泉川さんの家は今の北食堂のあたりに、石原さんの家は農学部棟の南端の方にあった。ヤマバーンの区域はそれぞれ決まっていて、山を管理する手数料として、居住地とクワーシチ(農耕用の土地)が与えられていた。畑の税金はなく、土地の所有者は西原村(当時)、耕作者はヤマバーンとなっていた。
2.千原の生活
かつて千原は屋取集落であった。昭和8年に森川、徳佐田と同様、字棚原から分離独立し、一行政区になった。しかし、まだ茶山(棚原杣山)一帯に散らばって居住する戸数四十五戸ほどの小さな集落であった。ほとんどが農家、町内で一番山深い山村だった。
泉川さんの家の近くに、トーフクエーマーチと呼ばれる大きな松の木があった。大人二人で抱えられる大きさで、その木の根元には香炉があって、拝みどころになっていた。そこに豆腐を供えたらいつのまにかなくなっていたので、トーフクエーマーチ(豆腐を食う松)の名前がついた。トーフクエーマーチは、昭和8(1933)年ごろまであったが、その後、理由はよくわからないが、よそものに切られてなくなったという。
シージマタの御嶽というのが、現在の球陽橋の下、東側よりの谷底近辺にあった。
農学部建物の北側駐車場の近くにボージウシューヌカー(坊主御主の井戸)というのがある。第二尚氏の尚瀬王(1804〜1834)が隠居して、何かの事情で首里から千原の棚原山に移り住んでいたころ、この井戸を使っていたという。井戸の名前はそれに由来する。ボージウシューの住居は、今の北食堂の北西側隣にあったという。大学移転の際に整地工事で、この井戸が壊されようとしたが、そのとき首里のノロから残すように言われ、現在コンクリートで囲まれ、保存されている。
現在の北口から入った信号機の交差点の右側、農学部よりの方に、昔、茶山ンマイーという馬場があった。昔はよくそこで馬競争をして楽しんだ。
体育館のあたりはチャーヤマ(茶山)。
千原池は新たに堰きとめて造られたもので、以前は川が流れていて、その川沿いに個人の家が広がっていた。そこの川にはウナギ、カニ、エビなどがいて、よくとってきて食べたという。
農学部付属農場棟の西の小高い森はイシグスクモーと呼ばれていて、戦時中はここに日本軍の210高地があった。この辺りは激戦地で、村有林内も焼け野原になり、遺骨がゴロゴロしていたという。
このように、千原のキャンパス内には、ヤマバーンをはじめ、寄留民などが住んでいた痕跡(井戸、墓地など)が散見できる。農学部近くのシージマタの御獄などは、今でも棚原集落の人々が、年に二回ほど拝んでいるらしい。
また、村有林の周辺の原野などは、カヤモー(茅毛)として、各集落によって利用されていた。カヤモーから刈り取られたカヤ(チガヤ)は、萱葺き屋根用の材料に使われた。棚原集落の人々が利用していたのは、@サクダモー(佐久田毛)、Aウナガモー(翁長毛)、Bクヮシチャモー(小橋川毛)、Cハブモー(形がハブの形に似ていることから)などであった。それぞれの現在の位置は次の通りである。
@ サクダモー・・・現在の琉球大学病院の南斜面辺り。
A ウナガモー・・・現在のキリスト教短期大学のある場所。
B クァシチャモー・・・字小橋川と字内間両字の来た西側の斜面辺り。
C ハブモー・・・クァシチャモーの隣り。
3.戦時
昭和19年8月ごろから、千原一帯にも石(いし)部隊 が駐屯するようになった。部落内の山間部に100人余りの友軍の将兵が来て、字民も総動員し、陣地壕を掘った。武見中尉という将校は、大屋普天間(屋号)で寝泊りしていた。その隊で生き残ったのは、武見中尉と2,3人の兵隊のみで、他はすべて戦死した。
シージマタ付近の大きな糧秣壕掘りにも、字民多数が動員された。主に女性が動員され、男性たちは部落外の陣地壕構築に動員された。
区長が字民から供出物を集めて軍に供出したり、徴用人夫を割り当てたりしていた。一般兵はいつも腹をすかせ、民家に来て、食べ物(芋やキャベツなど)をねだった。戦後、生き残りの一般兵の一人からお礼状が届いた人もある。
字民の多くは米軍上陸直前まで、陣地壕掘りや飛行場建設などに徴用されていた。女・子供は村落に残っていたが、米軍の進攻に伴い、島尻方面へと逃げた。
米軍が沖縄本島に上陸し、普天間部落付近まで進攻してきたので、字民は慌てて首里方面へと逃げた。
南上原では、歩けない老人らは部落近くに小さな避難壕を掘ってそこに隠れていたが、あるおばあさんはそこで亡くなっていた。食べ物がなく、餓死したと思われる。他の老人らも同様だった。
終戦直後、石グスク一帯は草木が一本もなく真っ白い岩山であった。それが激戦の跡を物語っていた。石グスクには、多数の日本兵の遺体がひっくり返っていた。また、石グスクの麓には四人の友軍の兵隊が電話線で片足ずつを一緒に縛り、自決したと思われる遺体もあった。
ほとんどの遺体は友軍の兵士だった。遺骨収集作業は地元の人が担当した。民家の近くにまで頭蓋骨が転がっていた。収集した遺骨は村の慰霊之塔に丁重に葬った。
米軍は1945年4月1日に北谷村砂辺の海岸から上陸すると、その日のうちに普天間、野嵩付近まで進攻してきた。志真志部落にはたった一軒しか残っておらず、千原のすべての民家が消失した。部落中が戦車のキャタピラで踏み潰され、地形も変わるほどだった。
4.戦後
昭和21年11月ごろ、住民は棚原から千原に帰ってくる。厳しい食糧難で、ソテツを遠くまで取りにいき、そのおかげで餓死せずにすんだ。
戦後、字民が千原に帰ってきたころ、宜野湾村嘉数に米兵やフィリピン兵が駐屯していた。彼らは夜になると女目当てに千原までジープでやってきた。そのため、字の男たちは、兵隊たちから女たちを守るのに大変だった。
朝鮮動乱のころ、千原一帯は米軍の演習地として使用された。石グスクを中心として、何千人という米兵がテントを張って野営していた。演習場からは毎日銃声が聞こえた。夜になると彼らは民家にやってきて、酒や女を探しまわった。一般兵を管理・監督する将校が休暇で駐屯地を留守にする晩などはとくにひどかった。
地元の人の訴えと、黒人兵4人がハブに咬まれて亡くなったこともあり、米軍は演習場を移転した。千原一帯は約半年ほど演習地として利用された。
琉球大学の移転に伴い、千原は一転。茶山一帯はキャンパスに化し、字民は移転を余儀なくされ、北側の一角に住居を構えている。
終わりに
この千原キャンパスにもこんなに歴史があるにも関わらず、全く何も知らずに、のんきに幽霊話を繰り広げている琉大生って一体・・・。力不足で詳しいことは確認できなかったが、琉大の整地中にも45柱が発掘されたらしい。大切な作業にもかかわらず、多少粗雑になってしまったことを反省し、次回につなげたいと思う。せめてこれを機会に、いろいろなことを思っていただければ幸いである。
《参考文献》
仲間勇栄・仲地宗俊・菊池香 「琉球大学千原キャンパスにおける森と人々の暮らしに関するフィールド調査」 『琉球大学農学部学術報告49』 2002年
西原町史編纂委員会・編 『西原町史 第三巻資料編二 西原の戦時記録』 1987年
|